私は1980年代後半に子ども時代を過ごしました。ごく普通の子どもでした。そのとき関心があったことは、マイケル・ジョーダンのバスケットボールカードを手に入れることや、所属していたサッカーチームで得点を上げることなどでした。私は当時、おそらくほかのオーストラリアの子どもたちと同じように、世界で起きている現実の問題からは遮断された世界にいたのです。
しかし、小学校で過ごしたある1日がそれを変えました。その意味や影響に気付くのはその後まだ何年も先のことですが、私は意図せず、森本順子さんの絵本「My Hiroshima(わたしのヒロシマ)」と出会いました。絵本を通して、当時自分が知っていた小さな世界の、その裏にあるものを垣間見たのです。
森本さんは第二次世界大戦後にオーストラリアに移住し、オーストラリアでよく知られた被爆者でした。
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森本順子著『私のヒロシマ』
広島に原爆が落とされた1945年8月6日、森本さんは女子生徒でした。正確な数ははっきりしませんが、爆発で8万人前後の方が瞬時に亡くなったといいます。森本さんはその日、たまたま体調を崩して学校を休み、自宅にいました。同級生360人のなかで、おそらく唯一の生存者となりました。
「My Hiroshima」では、シンプルで優美な挿し絵を通してその日のことが描かれ、小学校で出会ってから何十年もずっと私の中に残りました。先生が「My Hiroshima」を読むのを聞きながら、小学生の私は床に足を組んで座っていました。この小さな女の子の話に心が動かされたのを覚えています。本当に恐ろしいことが世界で起こり得るのだということを初めて理解しました。
私は当時、7歳か8歳だったと思います。「My Hiroshima」を初めて読んだときに吹き込まれた繊細な感受性は、多くの形で今でも私の中に残っています。爆発の後の森本さんの姉の様子を先生が読んでいるとき、森本さんの姉は爆弾が落とされたときに食事中で、使っていたはしが唇に突き刺さって穴があいてしまうのですが、クラスメートがくすくすと笑い始めました。私は彼をきっとにらみ、静かにするように言いました。とても鮮明に覚えています。子どもながらに、話の内容がとても真面目で、深刻なことなのだと分かりました。
「My Hiroshima」が私の心に届いたように、オーストラリア中で、これまでに多くの子どもたちの心にもこの本が同じように届いていると思います。
森本さんの物語から学んだことは私の潜在意識の中にとどまり続けましたが、そのうち「My Hiroshima」との出会いを忘れてしまいました。そして約25年が経ち、仕事でシドニー北部に住んでいる被爆者の方にインタビューをすることになりました。小学校のときの記憶が薄れ、その時は森本さんの名前も覚えていませんでした。
訪れた家の裏庭に入ると、小柄で弱々しい感じの高齢の女性が、日本語で森本順子だと自己紹介をしました。私たちは腰を下ろし、森本さんが、広島の原子爆弾が落とされてからの数時間、数日、数週間をどう生き延びてきたかについて話し始めました。感情が揺り動かされ、心が奪われました。森本さんは控えめで多くを語りませんでしたが、修羅場を経験した人だけが持っている静かな力がありました。
森本さんが自身の経験を本にしていることは事前に知っていましたが、彼女が私に「My Hiroshima」を手渡してくれたときになって初めて、やっと自分の記憶と森本さんがつながりました。
白く巨大なきのこ雲を背景に学校に通う2人の子どもの姿――。「My Hiroshima」の表紙を見間違えることはありません。私に大きな影響を与えながらこれまで会ったことがなかった存在との「再会」は、特別なものでした。森本さんのアートとストーリーテリングの方法は、子どもだった私の成長に影響を与えました。そして私は20年以上の時を経て、その人と向き合って座っていたのです。
子どものときに「My Hiroshima」に出会ったといっても、私は大人になってから熱心な反核活動家にはなりませんでした。ですが、そのおかげで、私は核テクノロジーについて、それが平和的な利用でもそうでなくても、その恐ろしさを理解し、慎重に扱うべきものであると理解していました。
核賛成派の人は原子力こそが未来だと主張し、反対派は落とし穴が待っていると反論します。どちらにしても、過去に起きた核の悲劇から学ぶことが多くあります。
権力の回廊(corridors of power、政官界の高官などのこと)を歩く人たちが、彼らの子ども時代に、日本人の少女と彼女の世界が原子爆弾で破壊された日について書かれた1冊の絵本と偶然出会っていたらいいなと思います。
*森本順子さんは2017年に、85歳で亡くなっています。