1942年2月19日も、今のダーウィンと同じように蒸し暑い日だったと戦争経験者は語ります。同日朝、日本の空母4隻から発進された攻撃機188機が、ダーウィン上空に姿を現し猛爆を開始。それにより、236人が命を落としました。
日本海軍の軍人、豊島一元三等飛行兵曹21歳は、爆撃機を操縦していた一人。しかし、飛行中エンジントラブルを起こし、ダーウィンの北方80キロに位置するメルヴィル島に不時着しました。その後、現地の先住民族ティウィ族のマティアス・ウルングラ氏によって捕らえられた後バサースト島に送られ、オーストラリアにおける初めての日本兵捕虜となりました。
その日から19日でちょうど77年目。現地では慰霊式典が開かれ、退役軍人をはじめ約2000人が出席しました。式典では、戦時下におけるティウィ族の国への貢献が評価されました。
1942年2月19日のダーウィン空襲は、旧日本軍がオーストラリア本土に対して行った最初で最大規模の攻撃でした。オーストラリア本土が他国から攻撃を受けたのはこれが初めて。同じ年の3月には、西オーストラリア州のブルームが、7月にはクイーンズランド州のタウンズビルが旧日本軍から攻撃を受け、大きな被害が出ています。
バスハースト島のキリスト教の教父、ジョン・マグラス氏は当時を振り返り、空に旧日本軍の攻撃機が飛んでいるのを発見したとき、その頃使用されてたペダル式のラジオを使ってダーウィンに向けて情報を送信したといいます。
さらに、戦闘機パイロットであったマット・ホール氏は、当時を振り返り、次のように述べています。
「ティウィ諸島の住民は自分たちができるあらゆることをした。ティウィ族は、攻撃が始まっても避難しなかった。彼らの生活はカトリックミッションを中心に形成され、その土地に根付いていた。だからそこから離れるということは考えられなかった。彼らが国のために忠誠を尽くした」
ダーウィン空襲を経験した退役軍人ブライアン・ウィンスピアさん、バジル・スタールさん、マーヴィン・アイさんは、現在90代後半。今年の慰霊式典にも出席し、チモール海で行われた大砲や銃で迎撃する実演をじっと見つめていました。
当時オーストラリア空軍に所属しハドソン爆撃機を操縦していた99歳のウィンスピアさん。元操縦士として現在生き残っている最後の退役軍人です。
「基地から敵を見ると、日本軍はまるで楽しんでいるかのような表情をしていたのを覚えている。」
ウィンスピアさんは当時を振り返りこう述べています。
昨年11月、安倍首相は、日本の首相としては戦後初めて、ダーウィンを訪れ、空爆の犠牲者、戦没者の慰霊碑を訪れ献花を行い、黙とうを捧げています。
北部準州のマイケル・ガナー首席大臣は、犠牲者に対して追悼の意を述べるとともに、安倍首相のダーウィン訪問について触れ、今ダーウィンは、過去の過ちを許し、平和のシンボルとなったと述べています。